*** ペナン島雑記 ***
2005年8月24日 |
株式会社理化商会
代表取締役 滝口隆彦 |
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《 象潟や 雨に西施が 合歓の花 》 芭蕉
梅雨空の中、この原稿を書いている。皆様のお目に触れる頃にはとっくに梅雨が空け、残暑の頃かもしれない。
昨年ペナン島を訪れた。ご案内の通り東インド会社がその拠点を置いたことで知られる島だ。昨年暮れにはこの島にも津波が押し寄せた。私が食事した店も2軒ほど被害にあったと聞く。接客してくれた方にも亡くなられた人がいるのだとか、痛ましい限りである。
この島のあちこちでPINANGの文字がみられる。PENANGのはずなのにと怪しんでいると、現地の友人が古いペナンの表記だと教えてくれた。昔、漢字では檳榔島と書いたのだという。檳榔(びんろう)は麻薬性のある赤い木の実で、用いると体が熱くなり、一時的に疲労が回復する。台湾では特に高速道路の入口で売られることがよくあるとか。長距離のトラックドライバーが眠気覚ましに齧るらしい。かなり渋いこの実は飲み込まずに吐き捨てるのだという。街でも売られていて、吐き出された液体を見て、慌てものの日本人が血液と間違えて、台湾は物騒なところだと勘違いしたという話があるが、はてさて、これは眉唾物。
檳榔樹は根の浅い低木で、山肌に植樹すると地滑りの原因になるとかで、台湾の法律で禁止されている。売買も違法行為だ。警察からいつでも逃げられるように、トレーラーのような売り場で、檳榔西施と呼ばれる若い女性の販売員が水着姿や挑発的な身形で接客していることで知られている。
よく知られた話なので、今更書くのは気が引けるが、念のため。西施は春秋時代の越王勾践の寵姫で、天下にその美貌が知られていた。越が呉に戦いを挑んで敗れたときに、好色の呉王夫差は西施を差し出させ、勾践の命乞いを聞き入れた。
果せるかな、西施は夫差を籠絡し重臣を殺害させ、ついには、呉は越に滅ぼされる。傾城の美女とはこのことか。なるほど檳榔西施とはよく言ったもので、放置したら社会が傾くかもしれないな、などと一人合点してこの雑文を終わりにする。なんだか妄想のような文章で恥ずかしいが、
かといって、これ以上のものも書けまいと思うのでご容赦願いたい。 |
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***「諫言」大将、何考えてはりまんねん!***
2004年11月2日 |
タイユ株式会社
取締役社長 四元大計視 |
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近年わが国では、大手企業の不祥事が多発しています。4年前の食品メーカーの集団食中毒事件に始まり、相次ぐ牛肉偽装事件や自動車の大規模リコール問題など、よくこれだけ次々と出てくるものだと驚きを隠せません。
これらのニュースが次々とテレビで報道されるたびに、その不祥事が発生した原因を聞いて我が耳を疑います。その原因の殆どが、部門ぐるみや組織的に行われ、どのケースにおいても、その企業の考え方や行動が奢りと恣意の固まりだからです。
企業内に誰か「大将、何考えてはりまんねん!」と言える勇気ある人がいて、その諫言にトップが耳を傾ければ、企業の不祥事は未然に防げるはずです。
企業の不祥事は、一企業の問題にとどまらず、業界全体に対する信頼をも損ねかねません。業界全体が社会の共感と信頼を得ることにより、ビジネスを介して社会に共生しなければ、その業界の将来はありません。
戦後の日本が、世界を相手に瞬く間に経済大国になれた要因として、技術立国を立ち上げ、続々と新製品を世界に送り出したことは誰もが知る所ですが、私としては、日本人が自国の文化と道徳を重んじ、「誠実で正直なビジネス」が取引の根幹にあったからだと思います。
二十数年前に、弊社も海外との取引を始めましたが、製品を輸出するに当たり、貿易業務に精通していなかった弊社は代金回収に不安を持ち、相手に「船積み前の全額現金前払い」の条件を提示しました。その時、取引相手のメーカーとバイヤーの担当者は、「日本のメーカーに騙されたという話は聞いたことがない」と言って、即その取引条件を了解してくれました。その時まだ30才そこそこで、海外取引経験のない私は、日本人であることに誇りを感じました。
また日本は、治安面でも世界一安全と言われ、数年前まではアジアの後進国にとって憧れの国でした。また日本の製造業も、世界一の技術力と生産性を築き上げ、同じくアジアの企業の模範であり目標とされました。
そこまで日本が大成長を遂げたのは、古来、日本人は自国の文化を愛するとともに、トップに対して「忠義」の心を持ちながら「諫言」することの出来る、賢くて勇気ある人種だったからです。
見ておられる方も多いと思いますが、今、NHK大河ドラマで、幕末の動乱を描いた新撰組を放映しています。その頃の「忠義」とは、目の前の主君の恣意に単純に従うことではなく、それを超えて藩や家の存続のために尽くすことでした。口には出さずとも行動で「諫言」していたのです。こうした「忠義」の観念があればこそ、武士たちが藩の枠を超えて日本国存続のために立ち上がり、明治維新をなし遂げることができました。
現在の日本は、政治、経済の両方で明治維新に匹敵する変革期だと言われています。この変革期を乗り越えて日本が更に発展していくためには、日本文化の原点に立ち戻り、各団体・企業のトップ・経営者は、驕ることなく恣意を捨て、「諫言」の出来る人材を育てて、「誠実で正直なビジネス」を取り戻すことが必要です。たとえトップが決めたことであっても、それが反社会的な行為であれば、社員は勇気を持って「諫言」しなければなりません。
昨今、各企業は不祥事を無くすために企業倫理とコンプライアンスの確立に躍起になっています。そして企業倫理を確立の一環として、「社内通報制度(内部告発)」を設けています。これも企業倫理の意味合いからは奇異な制度だと思いますが、「諫言」のための制度と解釈すれば納得もできます。
グローバル化の進む今日、どれほど業績がよくても、企業倫理とコンプライアンスを疎かにする企業に将来はありません。「大将、何考えてはりまんねん!」と勇気を持って「諫言」の出来る企業風土を創り上げ、正々堂々と胸を張って世界のマーケットを闊歩したいものです。 |
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*** 塞翁が馬 ***
2004年9月21日 |
関西油脂興業株式会社
代表取締役 安居 悠 |
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前回の寄稿では「引退後への準備」と言う題で、絵を描くことにチャレンジしたことを書きました。その時に他の趣味として挙げた一つに山歩きがあります。これは私にとって割合早い段階から関わりのある趣味でした。
父の友人に大学山岳部出身の方が居られまして、其の方が仲間を集めては兵庫県南部から中部の山を登るのです。父から否応無くリュックを背負わされて参加させられたのが中学生頃でした。殆ど専門家のような人の引率ですので、人里離れた山や、近郊の山でもわざと道なき道を選んで歩き、少しですが山登りらしい山登りを経験しました。
高校生の頃は時々一人で六甲山に登ったりしておりましたが、大学生の頃は途絶えておりました。次に登りだしたのが15年ほど前になります。年に5〜6回ほど単独で登っていました。これは家の近所の山(須磨アルプスと言う仰々しい名前が付いています)を3時間ほど歩きます。途中に「馬の背」と言う難所もありスリルも味わえる山歩きです。
そうそう、阪神大震災の前日もこの山を登っておりました。8年ほど前からは一人で登る自信が無くなり、同好の士と行動するようになりました。大体、月に1回は登るという努力を続けております。
忘れもしない平成14年1月20日の日曜日、六甲山頂からの下山中に足を滑らせた折に左踝を骨折したのです。経験された方も多いでしょうが、骨を折る時は本当に嫌な音がするものです。しかし、其の時は派手な肉離れくらいに思っていました。びっこをひきひき下山しまして家に帰り、風呂で身体を洗って食事を済ませ、早々にベッドに潜り込みました。 翌日、出社の用意をしたものの痛みが引いていないので、知り合いの病院に行きレントゲンを取ってもらいますと、素人目にも判る見事な骨折。その場で左足の付け根から足先までギブスを着けられました。
松葉杖のお世話になるのですが、中々思うように身体を動かす事が出来ません。会社で椅子に座れば座ったきり、家に帰っても椅子に座るか寝るかの生活です。此れでは運動不足になります。運動不足ですから食欲が起きません。其の生活が2ヶ月続きました。
其れまでの私の食生活といえば朝昼晩の3食は欠かさず、あいだに間食をするものですから72キロの体重を保つのに必死で、少し気を抜くと73キロを突破すると言う肥満体型でした。この食生活が一変したのです。間食は全くといってよいほどしなくなりました。昼と夜の食事も以前より押さえ気味になりました。気が付けば体重が67キロで安定しているのです。なんと5`も体重が減っています。
これ幸いとこの体重の維持を心がけました。今では人間ドックの医者が「よく努力が続いている」と褒めてくれます。足を折って3ヶ月ほどは本当に不自由な生活を送りました。その代わりに生活習慣病から遠ざかる事が出来、ほぼ標準体型になりました。痛風の危険性も減ったと思います。身動きは歳の割りに軽くなったようです。加えて、きつくなっていた衣服が楽々と着られるようになり、買い換えずに済んでいます。
禍福はあざなえる縄の如し。「人間万事塞翁が馬」。 |
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***意見の対立 何が正しいのか?***
2004年5月31日 |
東邦化学工業株式会社
代表取締役社長 中崎 龍雄 |
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我々の周囲で絶えず起きている意見の対立。 普段は聞き流していることが、時に妙に気に掛かる。
小泉首相の再訪朝をどう評価するか、拉致被害者家族間ではっきり考えが分かれた。子供が帰国した家族は大喜び。一方、安否不明者の家族は落胆を通り越し怒りを顕にしている。後者の厳しい姿勢を受けてか、民放テレビの報道番組では小泉批判の論調が目立った。一国のトップは様々な対立意見の中から難しい決断をし、その責任を問われるのだから大変だ。その後、日経の世論調査で訪朝を評価する人が65%との報道を見て、国民の多くが案外現実的な見方をしていると安堵した。
意見の対立といえば、イラク戦争に対する評価がある。テロとの戦いという大儀の実体は何だったのか?この五月の連休、マレーシアの前首相マハティール氏著の「日本人よ、成功の原点に戻れ」を通読した。イスラム教徒の同氏は、かねて米国のイラク戦争を痛烈に批判している。本書でも“テロとの戦い”を虚構と断定。「テロは追い詰められた人間が身を挺して追い詰めた人間に攻撃を加えるもの。“イスラム特有のもので非西欧社会の残虐性のあらわれ”といった見方は誤り。」と主張する。私自身、自爆テロを不気味で理解を超える自己犠牲の破壊行為としてイスラム教と関連付け考えがちであったが、成るほど我が国でも戦時中の特攻隊の歴史がある。立場が変われば、何が正義かも変わる。とは言え、日本でのアルカイダのテロだけはご免である。
青色発行ダイオードの特許をめぐる日亜化学とカリフォルニア大教授中村修二氏との訴訟での主張の対立も興味深い。一審の東京地裁では、200億円の支払いを同社に命じる判決が出され、世間を驚かせた。かねて中村氏は地場の中小企業でほぼ独力で世紀の大発明を成し遂げた研究者として、テレビ、新聞、雑誌に度々登場。その大発明に至る孤軍奮闘振りは有名である。先日、日亜化学の立場から同社の主張内容を説明した本を読み、中村氏の話との違いの大きさに驚いた。曰く、「当事業は多数の特許とノウハウから成り、同氏の特許はその内の一つに過ぎない。本当の技術面のブレークスルーは他の研究者が開発した。同社の利益に同氏の特許は全く貢献していない。」しかし、地裁では、同社の主張は避けられ、実質中村氏勝訴となった。訴訟の場では、自分に不利な点は隠し、都合の良い点だけを強調主張し合うのが常とはいえ、敵対関係がここまで事実を歪めることを再認識させられた。自社の社員とは決して斯様な関係になりたくないものだ。幸か不幸か、弊社でこうした心配が必要となりそうな世紀の大発明案件が現在進行中との話は聞いていない。 |
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***最近感じること***
2004年2月9日 |
スギムラ化学工業株式会社
代表取締役社長 村松 明博 |
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最近、健康の「ありがたみ」を、つくづく感じている今日この頃でございます。ゴルフ大好きな私にとりまして、ここの所ゴルフ休日を取り入れないといけない状態が続いております。
寒い冬場は好まないので、基本的にはプレーはしませんが、その代わり、暖かい夏場に向けては、休みさえあればいつもゴルフをしております。しかし、アイアンクラブを打ち込むタイプの為に、ついつい地球を叩きすぎて、左肘を痛めてしまい、庇うあまり腰まで痛みを感じるようになってしまいました。楽しみにしておりました、秋の全国工作油剤組合、秋田の戦いも休まざるをえませんでした。温泉も良い所と聞いておりましたので、非常に残念な思いでございました。
身体の調子が悪いと、日々の仕事にも悪い影響が出て、仕事をやる気がしないし、頭と行動の回転も非常に悪くなりますね。健康第一だとつくづく思います。
ゴルフ休日のために、テレビ、新聞を見る機会が増え、最近の日本国という体調はどんなものでしょうか?
私の目から見る限り、良い体調とは言えないと感じる次第でございます。何かもっと大きく脱皮しないといけないし、先の衆議院選挙において、投票率が60%を切る様では、国民として恥ずかしい思いである。自民党も何となく中途半端で、今ひとつ頼りない。民主党も国民うけする甘い政策論を出して、票にしようという感じがにじみ出ている。もっと高い立場に立って、国家論を中心に戦って欲しい
。
アジアのリーダーであったはずの日本も最近では、中国、台湾、韓国にも遅れをとっている所が多々あるように感じて仕方がない。これは、私だけが感じることでしょうか?色々なことが中途半端な国、日本。これで良いの
だろうか?
一部の国民は最近の経済状態の中において、非常に苦しい立場に置かれている人もいるでしょうが、多くの国民は不満がありながらもそれなりに満足している。本当に困ったら昨今のようなテロ騒ぎも発生する
であろう。しかし、多くの日本人はこのぬるま湯がもう少し腐らないと本当の痛みを感じないのだろう。
国を任される人たちに二世議員が多いことも問題だ。国の舵取りをする人は、真に実力ある人を選ぶシステムにすべきで、北朝鮮のようなやり方は好ましくない。
国民も、無投票ではなく、白票でも良いから意見表示をすべきで、「変わらないから」「皆同じ」などと陰で言っていてはいけないと思いますよ。
自分の身体、日本国という身体を、最近色々感じることが多くなりました。会員の皆様はいかがでしょうか。色々なことに注意を払って、健康管理をよくして、先ずはしっかり働いて税金を納めて、自分も国も良い状態にしてゆきましょう。 |
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*** 打出の小槌 ***
2003年12月11日 |
大同化学工業株式会社
代表取締役社長(全工油理事) 黒川 一 |
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昔の神様の形として(大国主命)、袋を肩に背負い、右手に打出の小槌を持った姿を記憶している人が多いのではないでしょうか。一つの定番として、財を呼び込む姿勢を、年末とか年始、戎神社祭などで絵姿を見かけたことがあると思います。この打ち出の小槌にまつわる民話を皆様に紹介します。
時は昔、場所は芦屋です。芦屋は古くから景色の美しいところとして知られてきました。後ろに六甲山、前に瀬戸の海と、豊かな自然にも恵まれています。そして、当然の事として、古い歴史、文化を継承し、芦屋ならではの個性を持ち続けて参りました。現在の芦屋からは、考えられない事がたくさんある中の一つです。
打出の小槌
とんとむかし、あしやの海に竜神がすんでおった。竜神は、大そう大事にしている小槌という宝物をもっておった。その小槌をふると、願いごとがすべてかなうという宝物であった。しかし、この小槌には一つの困ったことがあった。小槌を使っているときに、鐘の音が聞こえてくると、かなった願いごとが、すべて消えてなくなるというのである。竜神は、そんなめんどうなものを持っているのがいやになった。そこで、いろいろと考えたすえ、都に行き、朝廷に差し上げることにした。竜神は人の姿になって朝廷に行き、あつかい方を教えて、海に帰って行った。
めづらしい小槌という宝物をもらって、朝廷は大喜びをした。だが、よくよく考えると、この小槌は使いにくい。鐘の音が聞こえると、かなった願いごとが消えてしまうのは、まことに困る。都には、寺や神社が多く、一日中鐘の音が鳴りひびいているのである。「それに一度失敗すると、小槌は役に立たなくなるというではないか。これは困ったものをもらったものじゃ。」朝廷の人は、そうつぶやいたそうな。ちょうどその時、あしやの長者が手柄をたて都に来ておった。そして、小槌は長者にほうびとしてわたされた。なんでも願いごとがかなうという小槌をもらった長者は、喜びいさんで国元のあしやへ帰っていった。
長者が大そうめずらしい宝物を持ち帰ったという話は、その日のうちに、打出の村中に知れわたった。しまいには、打出村だけでなく、あしやの村人にもつたわり、人々は長者の家をおとずれ、小槌を見たがった。長者は、りっぱな屋敷にすんでおり、もともと大金持ちであった。特に欲しいものもなく、もらった小槌は、床の間のかざりにして、毎日ながめておった。また村人も、さいしょは小槌を見るだけで満足しておった。ところがそのうちに、「長者さまや。見せていただいた小槌はたいそうりっぱじゃが、これをふってみせてくださらんことには話にもなりますまいが・・・。」と言い出した。
長者も、そう頼まれると、なんとのう小槌をふってみたくなった。そこで、村人に言うた。「この小槌はむずかしい小槌で、ふってみてもええが、鐘の音が聞こえると、何もかも消えてしまう。また、小槌は二度と使えなくなってしまうそうじゃ。それだけの覚悟がいるのじゃ。」そう言って、長者は小槌をふることにした。その日、大人も子供も、村中の人々が、おおぜい長者の屋敷にあつまって来た。どの人も、どの人も、胸をわくわくさせて、小槌がふられるのを待った。得意まんめんで、長者は床の間の小槌をとり、人々の前にさし出し、そして、小槌に深く礼をした。見ていた人たちも、あわてて地面にすわり頭を下げた。
「今からこの小槌をふる。何が欲しいか言うてみよ。」長者の声はあたりに響きわたった。「黄金の小判。」村人は声を合わせたかのように、そう言うた。「ようし。では、みなに小判があたるようにお願いしてみよう。」長者は小槌を高くふりあげた。「ここにおります者たちに、黄金の小判を与えてくだされ。」その声と共に、小槌は大きくふりおろされた。出るわ、出るわ。あっというまに、黄金の小判は山のように積まれだした。次から次えと出てくる黄金の小判は、「ちゃりん、ちゃりん、ちゃりん」とにぎやかな音を立てはじめた。
その時、どこかの寺の鐘が、あたりに響いた。「あっ!」寺の鐘の音に気がついた長者が、あわてて小槌をふる手を止めたが、すでに遅かった。またもや、「ちゃりん、ちゃりん、ちゃりん」と音を立てて、黄金の小判は消えていった。人々は、呆然とそれを見ておった。鐘の音が聞こえると、願いごとが消えてゆく。忘れていたわけではなかったが、気がつくのが遅かった。最後の一枚が消えた時、長者も村人も、小槌を見て、「いい夢を見させてもらった。」と言ったそうな。
皆さん、いかがですか?現在は、阪神電鉄の打出駅(芦屋駅の一つ大阪寄り)があり、戦後は歩いて十分ほどで海が望めるところです。そして、駅の近くに小槌町が現存しています。打出浜の名残り−海風を受けて曲がりくねった大きな松−が、国道十三号線から散見されます。もし、事実としたら、また事実でなくとも、なんとも楽しい、心温まる民話ではないでしょうか?
(あしやの民話より) |
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***雑感***
2003年7月28日 |
ジュラロン株式会社
代表取締役社長(全工油副理事長) 山口 徹 |
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最近の貿易統計によると、輸入相手国が戦後初めてアメリカを抜いて中国がトップとなりました。いまや中国が「世界の工場」へと成長し、人件費をはじめとする低コストで作れる安価な中国製品が世界を支配しているといっても過言ではなくなりました。日本の製造業は大手企業をはじめとして、生産拠点を中国へシフトしてしまったため、国内に留まって生産をしている製造業は大変な苦境に立たされています。パソコンやテレビをはじめとする電化製品を購入した時、思わず「どこの国で製造したものか」と銘板をしげしげと見てしまうようにもなりました。このように日本市場で販売されているものは大半が中国をはじめとする外国製品であり、余程の高級品でない限り「Made
in Japan」の文字は見られなくなり、一抹の寂しさを感じると共に、故障した場合どうすればいいのだろうかと、少々の不安にも募られています。
さらに国内においては、「えっ、あの有名な会社が・・・」と、いうぐらい大手企業や老舗が相次いで破綻しています。また、破綻を未然に防ぐため、銀行など金融関係、そして大手企業同士の合併や統合が次々と日常茶飯事のごとく行われています。こうして見ますと、やはり需要が締まれば供給は落ちるという需給のバランスが大きく崩れてしまったのです。
これからも暫くはこのような状況が続くことは必至です。中小企業として生き残るためにはどうしたらよいか、それは独自の製品を研究開発して他社に真似ができないものを作って販売することしかないのです。苦労して作り、苦労して拡販し、販売が軌道に乗ったかと思うと、いつの間にか他社が類似品を作って販売するのです。製品内容は類似しているものの技術的に落ちることと二番煎じのため、販売価格を大幅に下げて売るのですから困ってしまいます。
このような日本人特有の性質から見ても確固とした信念を持って、企業を存続させていると思われる会社は極めて少ないのです。これは誠に悲しいことです。激変する世界規模の経済活動により、各社とも売上が伸び悩むのはやむを得ないこととして、いち早く自社の製造・研究・その他の仕組みや問題を見つけ出し、少しでも効率のよい、そして利益を上乗せできる体制を経営者自らが実践しないとならないのです。
何事も景気のせいにしていては、いつまでたっても前に進めないことは分かっているのですが、いざ実行する段になると問題が山積で思わず躊躇してしまうものです。100円ショップで必需品を買うのもよいのですが、それなりのもので長持ちはしません。分かっていても思わず買ってしまいます。ところが、時間をかけて納得いくまで吟味して買った物は、うまくすれば一生使える買い物となります。
世の中はデフレ現象で価格の安いものしか相手にされなくなっていますが、一部では安物を敬遠し、価格は高くても品質の良いものを求める人もいます。価格の高いものを理解し購入してもらうためには、「これはいい製品です」というだけでは相手にされず、その製品の高付加価値を説明し、理解してもらい、それを使うことにより利益をもたらすものでなくてはならないのです。
それには技術力と時間が必要となります。人間の性として、他人が持っていないような物を欲しがる傾向があるようです。自分で使ってみて本当に効能通りの製品であれば、他人には使ってもらわない方がありがたいと思うのです。
私たちの業界もシェア獲得のために価格での競争が熾烈となっていますが、今後は製品の品位と技術力で競争していかなくてはならないと思います。特に環境対策から産廃量の削減が義務付けられ、できるだけ長持ちする製品に切り替えていかなくてはなりません。長持ちする製品となれば、必然的に販売量も低下します。そして現状のような価格競争では共倒れとなってしまいます。業界の発展のためにも価格競争はして欲しくないものです。そして近いうちに必ず価格競争ができなくなってくると思っています。 |
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*** 日本製について ***
2003年2月28日 |
協同油脂株式会社
代表取締役社長 小船 昭 |
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日本ブランドが自動車、電機製品をはじめ多くの分野で名声を博し、世界中に拡大していることは喜ばしいことですが、一方、日本の製造業の衰退が心配されつつ、徐々にブランドは日本でも生産は海外製、特に中国製が急速に増えていることは残念なことであります。
これからは日本製の良さを残す、或いは日本でしか作れないものをさぐり、海外移転での空洞化を阻み、穴を埋めなければなりません。
昨年11月に久し振りに伊勢神宮を参拝する機会を得、折り良くボランティアの年配の方にご案内をいただきました。
改めてお社の造形の美しさ、仕上げの丁寧さ、玉垣、案内板に至るまで一分の隙もない造作に感動しましたが、柱と梁の接合部の隙は四季の伸縮のためと聞いて、またまた感心した次第です。
20年毎の遷宮は15才の少年が見習として働き、35才で一人前の職人として仕事をし、55歳で棟梁として采配し、技術を後世に伝えるという意味もあると伺いましたが、1300年間引継がれてきた職人技が工夫と知恵を重ね、洗練され、今日に至り将来も引継がれてゆくのでしょう。
原生林に融合した極限のシンプルさに心を打たれ、自然との調和に敬虔な思いがいたしました。
話は変わりますが、最近、司馬遼太郎の「菜の花の沖」を読みました。
一代で松前を拠点とする回漕問屋を築いた高田屋嘉平の物語ですが、嘉平が慨嘆する場面が2ヶ所あります。
1つは、「日本人の特徴として、意地悪をしておのれの分を知らせてやる。
人々がそれぞれ分を知るのが封建の世で要求される最大の論理で、この時代の日本社会の上下を貫いている精神は意地悪というものであった。
上の者が新入りの下の者を陰湿にいじめるという抜きがたい文化は中国にもあまりないようで、意地悪、いじめる、いびる、といった漢字、漢語も存在しないようである」。
もう1点はロシアとの捕虜引渡し交渉に際して「日本、何とふしぎな国であろう。 歴史的結果としての日本は、世界の中で極だった異国というべき国だった。
国際社会や一国が置かれた環境など一切顧慮しない伝統をもち、更には、外国を顧慮しないということが正義であるというまでにいびつになっている。
外国を顧慮することは腰抜けであり、時には国を売った者としてしか見られない」。
作者の日頃の思いが嘉平に言わせたと思いますが、こういった今でも思い当たる日本人の弱点に反発し、乗り越えた者が次の時代を築いていくのでしょう。
日本の良いところを見直し、日本に誇りを持ち、売り物にしない愛国心を秘めて頑張ろうではありませんか。 |
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***コーポレートガバナンスを考える***
2002年12月3日 |
ユシロ化学工業株式会社
代表取締役社長 吉田 隆嗣 |
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昨今日本では、米国流コーポレートガバナンスの導入に向けて官民ともに全力を傾注しているように思われます。各企業は、執行役員制度や社外取締役制度を導入し、経営と執行の分離を進めています。政府も銀行の株式持合いを制限し、コーポレートガバナンスの導入を柱とした商法改正も進められております。
その矢先に米国でエンロン事件が発生致しました。会計にはアンダーセン、社外取締役にプリンストン大学のクルーグマン教授とすきのないコーポレートガバナンスを実践していたエンロンの経営破綻は大きな衝撃を世界にもたらしました。簿外取引から政界への働きかけなど、あらゆる不法、不正が隠されていたのですからなおさらです。私達にとって見れば裏切られたような感じと、コーポレートガバナンスの難しさを痛感させられた思いです。
しかしながら、経済のグローバル化が否応なく進んでおり、企業経営は世界を相手にせざるを得ない状況になっております。経済がグローバル化した以上、各国の企業は同じ土俵で、同じルールで競争を強いられることも事実です。そのルールこそがコーポレート
ガバナンスであり、そこに求められることは高い経営の「透明性」ではないでしょうか。
執行役員制度や社外取締役制度そのものがコーポレートガバナンスではなく、コーポレートガバナンス本質の「透明性」を実践する米国流の一つの手段であると思っています。新しい制度を導入することも大切なことと思いますが、それ以前に企業はあらゆる機会を通して社内はもちろんのこと地域社会、株主、ユーザー等企業に係る全てに経営の「透明性」を実践して行く努力がより大切なことと考えています。 |
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***ごまめの挑戦***
2002年7月23日 |
松 村 石 油 研 究 所
取締役社長 中野正コ |
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わが国製造業の地位低下が言われ出してから久しい。
安い人件費を求めて発展途上国に次々に生産基地を移していった初期のころは、空洞化といわれながらも住み分け論が危機意識を薄めてもいた。
しかし、いまやわが国製造業は先進諸国のなかで生産性がもっとも低いといわれている。
高い人件費、低い生産性では日本の製造業がこのまま世界的に成り立っていくはずがない。
2001年の鉱工業生産指数は7年前の1994年とほぼ同じ水準に戻っており、中国など近隣諸国の台頭を見ると、わが国製造業に需要が戻ってくる可能性があるのだろうかと思う。P.F.ドラッカーは、近著「ネクスト・ソサエティー」のなかで、「日本では、いまなお労働力人口の四分の一が製造業で働いている。
この国が競争力を維持していくためには、2010年までにこれが八分の一ないしは十分の一になっていなければならない。」と書いている。
しかし、私は、労働力人口の趨勢からみてソフト化が予想以上に進んでも、日本の産業のベースには製造業が座りつづけるのがまっとうな姿だと思う。
そして、足元の厳しい局面を工場サイドの地道な合理化努力による生産性向上で凌ぎつつも、長い目でみれ、やはり技術力をもって世界のトップ水準の製品を開発して生きていくのがわが国製造業の本道であろうと
思う。
明治以来の当社の前史を遡ると、まずは輸入潤滑油の販売を嚆矢とし、その後輸入装置による国産化等
技術導入を繰り返しながら、今の当社創業の礎を作りあげてきたといわれる。
そして、昭和33年の当社発足にあたっても、流パラ、スルホネートのトップメーカーであるソネボンと特殊潤滑油のホートンをモデルに事業をスタートさせたとある。
ここ数年当社は、第2の創業期を謳い文句に全社挙げて体質の転換に取り組んでいる。
当社創業者の故松村信治郎が、今から14年前に当社30周年記念誌で、「21世紀が到来する頃には、人も
会社も社会的存在を問うには世界が舞台となるでしょう。
会社が小さいということではなく“個性”が国際評価の基準になっていると思います。」と今を見通している。
まさにその時期を迎え、日本における一製造業者として技術を武器に世界に通用する会社を目指して、「ごま
めの歯ぎしり」といわれようと何といわれようと日夜呻吟しつつあるのが当社の現状である。
私が6年前当社社長に就任したころ、当社の研究開発部長に、「物の本によると、会社の将来は研究開発
部長のパスポートの汚れ具合で決まるといわれている。」と言って、積極的に海外へ出掛けて情報収集に努めるよう話したことを思い出す。
この受け売りをした話の種本が出たのは、私が社長に就任する10年も前のことだったように思うので、一部の
ベンチャー企業を除けば、その頃のわが社のような中堅・中小企業の研究開発部長の仕事は、既存製品の
改善のヒントや導入すべき新技術を他社に先駆けて海外から見つけて来るというような時代ではなかったかと思う。
しかし、今や日本の製造業には、かつてあったようなお手本がない。
もしあったとしても、そのための製造設備を日本に造るような時代ではない。
それなら製品を買ってきて売った方がいい、そんな分業の時代である。
ところが、ここ2、3年の研究開発部長は席の暖まる暇もなく、国際事業部長に負けず劣らずパスポートを汚しつづけている。
そして、その渡航目的は技術導入ではなくて新しい技術の売り込みや新製品のテスト先を求めて海外を飛び
回ることにある。
忙しい彼とは、eメールでお互いの行動を報告し合うことが多い。
「韓国からの帰国は予定より遅れます。遅れるのは良い知らせ、次のステップに移れそうです。
帰国次第、シンガポールの別のアプローチ先へ行ってとんぼ返りします。」「9月には、社長にサンノゼへ行って貰うことになりそうです。日程を空けておいて下さい。」最近の彼とのやりとりである。
こうしたプロジェクトのなかから、当社固有の技術がいくつ芽を出し花開かせるか予測の限りではないが、研究者には失敗を恐れず自分の人生を賭けて取り組んでもらい、会社もまた日本の製造業者として自らのレーゾンデートルを賭ける。
今はそんな時代であると思う。
長引く不況で売上げが伸び悩むなか、その他の経費は思い切って削りながら、歯を食いしばって研究開発に
コストと時間をかけていきたい。
今の私は、そんな心境で経営にあたっている。
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***創業の経緯***
全工油ニュースVol.64より |
株式会社ネオス
専務取締役 南 正和 |
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私の生まれは播州平野の西端にある相生市と言うところです。
瀬戸内海の良港に恵まれ造船所として栄えておりました昭和30年代後半に、新造船の進水
世界一を2年連続達成した実績もあり、造船一色といっても過言ではない、非常に活気あふれるところでした。
隣接には赤穂市があり、播磨の国赤穂藩主浅野内匠頭が殿中で吉良義央に斬りつけ即日
切腹を命ぜられ、翌年12月14日、赤穂浪士の首領大石内蔵助が浪士46名を率いて吉良邸に
討ち入り主君の仇を討った忠臣蔵で有名なところです。毎年、12月14日には義士祭があり、
各地より大勢の人が集まり賑わいを見せます。
周辺には塩田が沢山あり、土地の産業として製塩業が盛んな時代もありました。
また、東隣には、赤穂城引き渡しの大役を仰せ付かった藩主脇坂候の龍野市があります。
揖保川の清流を利用して造られる淡口醤油とか「揖保の糸」というブランドで有名なそうめんが
特産品としてあります。
私は、この龍野市にある兵庫県立龍野高等学校まで、約10Kmの道程を片道1時間かけて
毎日自転車で通っておりました。
その当時、国道2号線は勿論、県道も砂利道のため、自転車がよくパンクし、隣の村まで押して歩いたものでした。
そのせいか、体はいたって丈夫で今日迄来ております。
当社も本年10月18日に創立50周年を迎えます。
先輩達によって創られた基盤を固めながら、従業員が一丸となって頑張ってきた結果だとうれしく思っております。
当社の歴史は神戸港での沖修理(当時戦中の老朽船舶及び朝鮮動乱などで修繕船が沢山
有り、ドックが空くのを待って修理していると期間がかかるので沖合いに船を留め、船の外板の
穴の空いたところを溶接するとか、熱交換器の補修のこと)をスタートに、その後金属表面処理
分野に進出しました。
金属表面処理用の薬品の開発、及びそれを使用したケミカルクリーニング工事を行って参りました。
重厚長大の全盛時代に入り、各地域に製鉄プラント・高炉の建設、造船分野ではVLCC建造ドックの建設と、大手企業が先を競って設備投資を行い、当社も順調に伸びて参りました。
その後、後進国の追い上げ、産業構造の移り変わりなどで苦しい時代も経験致しましたが、この時代の流れに対応すべく製品開発のために研究陣の充実を図り、フッ素界面活性剤の開発等に力を注いで参りました。
そして、半導体分野の精密洗浄工場を各地で建設するなど、最先端分野への進出も果たしました。
また、東京電力・三井物産・生産開発科学研究所との共同研究でPCBの分解に成功し、東京
電力では、この研究成果を基に、平成13年10月からPCB処理プラントが稼動を始めております。
企業が生き残りをかけて行くには、常に時代の変化を読み、それに対応できる社内組織をフレキシブルに運営して行く事ではないでしょうか。
21世紀に入り、先の見通しがますます混沌とした状況の中で、ある一定の判断基準を持ちながら決断していかなければならないと考えております。
最後になりましたが、当社の滋賀事業所(製品の生産工場、半導体分野の精密洗浄、精密
研磨工場、中央研究所、環境部門の研究棟、滋賀営業所等)でISO14001を認証取得して1年
が過ぎましたが、化学工場として地球環境に配慮した更なる取り組みを真剣に進めて参ります。
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